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東京地方裁判所 昭和55年(わ)279号 判決

主文

被告人を懲役六年に処する。

未決勾留日数中一七〇日を右刑に算入する。

押収してある包丁一丁(昭和五五年押第一、五一七号の一)はこれを没収する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五五年八月三日夜、東京都北区豊島二丁目二二番一四号小林荘二階の当時の自室に阿久津八重子と同室し、無線機のスイッチを入れ、無線仲間の友人を呼出していたところ、いきなり「この野郎お前は誰だ」という、コールサイン「みのむし」こと長田龍人(当時二七歳)の声を受信したので、被告人も「お前誰だなんて、お前こそ誰だ」と言い返したことから口論の交信となり、長田は、その交信相手が被告人であることを確かめた後、「すぐ行くから待つていろ」などと怒号し、柳刃包丁や竹刀を自動車に積み被告人方へ向かつた。ところがそのころ、長田の友人である服部正良が「今みのむしちやんが包丁を持つて行くよ。」と無線で被告人に通報したため、被告人は、かねてより乱暴な振舞をすると聞いていた右長田が包丁を携えて右自室へ来襲してくるものと思い込み、右長田を攻撃することによりあわせて自己の生命・身体を防衛しようと考え、自室にあつた文化包丁一丁(刃体の長さ約14.5センチメートル、昭和五五年押第一、五一七号の一)を持つて右小林荘から三〇メートル位先の表通りに出て暫く待つていたが同人が現われなかつたので、一旦自室に戻つたものの、まだ同人が来るかも知れないと考え、洋酒を飲みながら、前記無線機を使用して、「来るならこい」などと怒鳴つていた。ところが長田は同日午後九時四〇分ころになつて、前記小林荘付近に到着し、包丁は車内に残したまま竹刀だけを携え、小林荘の南側木戸を開けて同荘の玄関に向かつた。被告人は右木戸が激しく開かれる音を聞いて、長田が押しかけて来たことを察知するとともに、前記の経緯から同人が包丁を手に携えているものと誤想し、再び前記文化包丁を右手に携えたまま直ちに自室を出て階段をかけ降り、折りしも玄関の引戸をあけて屋内に入ろうとしていた長田に対し、同人が包丁を現に携えているか否かを確認しようともせず、また同人がまだ攻撃体勢をとつていないことを認識しながら、同人を殺害することもやむなしとの決意のもとに、防衛の程度を超え、先制攻撃として、いきなり所携の右文化包丁で同人の腹部及び右後肩部を突刺し、あるいは顔面等数か所を切りつけ、よつて同月四日午後一〇時五四分ころ、同都文京区千駄木一丁目一番五号日本医科大学付属病院において、同人を腹部刺創による門脈損傷により失血死させて殺害したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

第一殺意について

弁護人は、被告人には本件犯行当時殺意がなかつた旨主張し、被告人も当公判廷においてこれにそう供述をしている。

しかしながら、関係各証拠によれば、(1)本件凶器の性状は、刃体の長さ14.5センチメートルの先端の鋭利な文化包丁であつて十分殺傷能力を有するものであること、(2)その攻撃の部位は人体の枢要部である腹部や顔面、肩などであつて、その結果生じた創傷は、腹部・後頸部右側各刺創のほか顔面に六個、下上肢に五個の各切創など多数存しているのであつて、その攻撃の激しかつたことが窺われ、とりわけ致命傷となつた右腹部の刺創は、胃、すい臓頭部を貫通し、門脈、動脈を切断し後腹部に達するものであり、被告人が右文化包丁をかなり強く被害者の腹部に突き刺したことが認められる。以上認定の本件凶器の性状、生じた傷害の部位・程度、犯行の態様などを総合考慮すれば、被告人には本件犯行当時少くとも未必的殺意があつたことは優に認められる。したがつて、弁護人の右主張は採用できない。

第二正当防衛について

弁護人は、被告人の行為は、刑法三六条一項の正当防衛ないし誤想防衛又は盗犯等の防止及び処分に関する法律一条一項二号の正当防衛ないし同条二項の誤想防衛に該当する、仮にそうでないとしても過剰防衛であると主張する。

よつて検討するに、関係各証拠によれば、被告人は無線の交信により被害者である前記長田が包丁を持つて当時の被告人方に襲つてくると考えていたこと、そのため被告人はこの際長田と闘つて自己の生命・身体を守ろうと決意し文化包丁を用意して長田の来襲を待つていたこと、長田は被告人を攻撃する目的で竹刀を持つて前記被告人の住む小林荘の玄関に来たこと、そのとき被告人は長田が包丁を携帯しているであろうと考えていたこと、そして被告人は長田が右玄関に現われるや、その不意を衝いて先制攻撃的に殺意をもつて同人を刺していること、その際、現実には、長田は包丁を携帯しておらず、また竹刀を携帯してはいたが、これをもつて被告人に対する攻撃体勢をとつてもいなかつたことが、それぞれ認められる。

判旨そこで、右事実に照らし正当防衛成立の有無を検討すると、長田は竹刀を携帯して他人である被告人の住居に、少くとも被告人に暴行ないし脅迫をする目的で侵入したのであるし、さらに、被告人は、長田が包丁をその場に携帯していると誤信していたのであるから、予め長田が包丁をもつて来襲することを予期していたにせよ、なお「急迫不正の侵害」の誤想は存在したといいうる。次に被告人は、長田が包丁を携行しているものと誤想し、自分がやらなければ、いずれ殺されると思い、自己の生命身体を防衛するために本件行為に及んだのであるから、防衛意思の存在も肯定しうる。もつとも、被告人は、当公判廷において、「この際対決しようという気持だつた」「戦おうと思つた」「マイクをとつて、来るなら来てみろと、逆に煽つてやつた」等の趣旨の供述をしているので、防衛意思の存在に多少疑問を挿む余地もないではないが、被告人は、同時に、「(長田が)来なければいいな、という気持があつた」という趣旨の供述もしており、これに、従前被告人の側から長田に暴行を仕掛けたことはなかつたこと、長田と特段の対立抗争をしていたものでもなかつたこと、長田が乱暴者であることを被告人は知つていたこと、被告人は短気ではあるが、これまで刃物をもつて喧嘩をしたことはもとより、大きな喧嘩の経験すらもなかつたこと等の諸事実を加味すると、被告人が「(長田が)来なければいいな」という気持を抱いていたということは、ありうることと認められ、被告人は必ずしも、この機会を奇貨として、この際長田を殺傷しようというまでの積極的な攻撃意思に満ちていたものではなく、せいぜい、来るなら受けて戦おうという程度の意思であつたと認めるべきであろう。従つて、被告人に、長田と戦つて対決しようという攻撃的意思が併存したとしても、なお刑法三六条にいう「防衛する為め」にしたというを妨げない。判旨問題は、被告人の行為が「已むことを得ざるに出でたる」ものといえるか否かである。被告人は「長田が包丁をもつて行く」という通報を受けていたのであるから、長田が現実に被告人方玄関を入ろうとした際、長田が包丁を携行していると誤信したということは、必ずしも否定し難い。しかし、被告人に対し未だ攻撃の構えをしていない段階を狙い、長田が玄関を入ろうとして引戸を開けた瞬間、その不意を衝き、いきなり先制攻撃的に、殺意をもつて、包丁で長田の腹部等を突き刺したというのは、右誤信を前提とした防衛行為としても相当性を欠いたことは明らかであり到底「已むことを得ざるに出でたる」ものとはいえない。なお事態を巨視的に観察すると、被告人は、「長田が包丁をもつて被告人方に行くから気をつけろ」という通報を予め受けたのであるし、当時の諸情況に照らしても、被告人としては、警察に通報するなど事態をより無難に解決する他の方法をとることは可能であつたと認められる。またそうした解決方法をとることは、決して被告人に難きを強いるものとはいえず、むしろ私闘を禁ずる法治社会の当然の論理である。被告人が、その挙に出ず、防衛のためとはいえあえて刃物を使用しての対決という方法を予め選択し判示の殺害行為に及んだことは、かりに長田が右瞬間において包丁をもつて攻撃体勢をとっていたとしても、なお違法かつ有責であつたとさえいいうるのである。その意味においても、被告人の所為は防衛行為として相当性を欠いたものであり、「已むことを得ざるに出でたる」ものとはいえない。従つて被告人の本件行為は刑法三六条一項の正当防衛ないし誤想防衛には該当しない。また、盗犯等の防止及び処分に関する法律一条一項二号及び二項においても右の相当性は必要と解されるから、同法条にも該当しない。しかしながら、被告人の行為は、急迫不正の侵害を誤想し、これに対して自己の生命身体を防衛するためになされたが、防衛の程度を越えたものであるから、刑法三六条二項に準拠し過剰防衛として処断すべきものであり、また長田のいささか常軌を逸した来襲の予告、あるいは、その来襲の態様などの情状を考慮し、刑を減軽するのが相当である。よつて、弁護人の前記主張は、右の限度で理由がある。〈以下、省略〉

(森岡茂 小熊桂 荒川英明)

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